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5月25日東京山の手空襲と疎開の記憶 [戦後史]

テレビを見ていたら、65年前の5月25日に東京山の手大空襲があったと報じていた。
初めは何ということなく聞いていたが、ふと「え?あ~そうだったか」と65年前の昭和20年6月に、西宮から島根県に疎開したことの記憶と結びつく。
インターネットで「空襲」で検索して、
6月01日:大阪空襲
6月05日:阪神空襲
が出てきた。
そして、塚口の地名も忘れられない記憶となっている。
とりあえず、今日はここまで記しておき、いずれゆっくり当時の記憶を辿ってみたい。

水島上等兵モデル死去の記事 [戦後史]

少し以前になるが、朝日新聞で
[「ビルマの竪琴」水島上等兵モデル死去]
との見出しに目が止まった。(*)
3段抜きの写真とともに、竹山道雄の小説「ビルマの竪琴」の主人公、水島上等兵のモデルとなったとされる僧侶、中村一雄さんがお亡くなりになったことを報じる記事だった。
92歳とのこと。思いもかけない記事に、これまでご健在であったのか、と驚くとともに、懐かしい思い出が脳裏に去来した。
中学2年(昭和25年)の国語の授業で、先生がこの「ビルマの竪琴」をテキストに使って授業を進められた。いわゆる副読本であろうが、何故先生がこの小説を副読本に使われたのか、は思い出せないが、印象に残る授業であった。
詳しいストーリは忘れているが、水島上等兵がいつも竪琴でイングランド民謡「埴生の宿」を奏でていたことは鮮明に記憶しており、ある時、国語のテストで「埴生の宿」の歌詞を書け、と出題されたこともあった。
東京の公立中学で1年間学んだあと、4月に父の転勤で関西に転居したが、中高一貫の私立で、独特の校風のもと、個性豊かな先生方が特色ある授業を進めておられたことは、この国語の授業に限らず、すべてが新鮮であったことも、今もって記憶に残ることになったのであろうと振り返っている。
インターネットで調べたら、竹山道雄は「ビルマの竪琴」を、昭和22年3月から翌年にかけて、児童向け雑誌「赤とんぼ」に発表したとのこと。国語の先生が副読本に採用したのは、発表直後であったと知った。
(*)朝日新聞東京本社版
20年12月20日(土)38ページ (タテ:3段、ヨコ:約15センチの紙面)

「セネタース」優勝! [戦後史]

今この瞬間、北海道日本ハムファイターズが、プレーオフ第2ステージ第2戦をサヨナラ勝ちで制して、優勝を決定した。球団創設以来3度目、25年振り、というが、戦後プロ野球が再開した時のチーム「セネタース」のフアンだった筆者には、何度も球団名が変わっても、いつになっても「セネタース」のままで、優勝をかみしめている。
昭和21年球団創設当時、横沢三郎監督のもと、青バットの大下弘、名投手白木義一郎、飯島滋弥らの名前が懐かしい。戦後最初のシリーズ開幕に先立って開催された東西対抗で東軍のチームに、早くも巨人の川上、千葉、藤本と並んで、大下、白木、飯島が名を連ねている。その後、苅田、井野川、安藤、米川などの選手も記憶に残っているが、チームは万年Bクラス。
そんな中で、次に鮮明に覚えている選手は、土橋、毒島、青野、岩下。いつ頃のことだったか、と検索に「毒島」単独で、あるいは「青野 岩下」連名で、入力したら即時に登場したのには驚いた。
「日本ハムファイターズ・背番号の歴史(1950―1954)」という資料に辿りついた。個人の作品か、それとも現球団が作成して公開しているのか分からないが、実に楽しい。
球団が身売りして日拓ホームフライヤーズと名前を変えたら、突然毒島、青野、岩下らの名前が、ラインアップから消えて、大変さびしく思ったものである。
25年前の優勝当時の監督や、選手ら、長い歴史の中で名を馳せた選手は多いが、不思議と、記憶に残っていて、懐かしく思い出されるのは、上記の選手たちである。
今も元気で、皆さん今日の優勝を喜んでいるのか、知るべくも無い。


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